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家康を追い詰めた漢、真田信繁(幸村) ①

大阪城

皆さん今年の大河ドラマはもうご覧になったでしょうか? 堺雅人さんが主演をはる今年の「真田丸」は、信繁(幸村)と父昌幸、そして関ヶ原後も生き残る兄信之を中心とした真田一門を中心に描いたドラマです。

この信繁、資料が少ないことから謎の多い人物として扱われてきました。今もなお研究・調査の続く人物なのです。今回はこの信繁と真田家についてご紹介したいと思います。

『一生懸命』の語源から分かる武士の価値観

『一生懸命』という言葉を知らない人はほぼいないと思います。では『一所懸命』という言葉はいかがでしょうか? これは『一生懸命』の語源と言われ、自分の土地を命を懸けて守る武士のあり方からきている言葉だという意見があります。

戦国時代の武士たちに何よりも大事だったのは『家』と先祖代々続く『土地』でした。当時の彼らの価値観としてこの2つを守ることが何よりも大事だったと言われています。武士は『忠義』を第一と考えていた、というイメージは後世に付属したイメージとも言われています。

もちろん、本田忠勝(徳川四天王の1人で後に信之の舅になる武将)のような忠義の士とも言える人物もいましたが、当時は珍しかったからこそ注目を集め、後世に日本人のあり方の見本として取り上げられたという意見もあります。

なにはともあれ今回お話しする真田家にとっても、『家』と『土地』は何よりも大事でした。そしてそれらを守るため、真田家は主君をつぎつぎと変えているのです。

主君をころころと変えていた真田家

真田家ははじめ武田家に仕えていました。武田と言えば武田信玄が頭首だったときにピークを迎えた、戦国最強の一族としても有名な一族です。上杉家とはライバル関係であり、上杉謙信とともに2人が頭首だったころは、合戦においてどちらも勝率9割という化け物じみた力を持っていたのです(ちなみに織田信長は勝率7割ほどだったと言われています)。しかし、信玄の死後に息子勝頼が家督を継ぐ、内部分裂なども生じて武田家は滅びてしまいます。真田家は自分たちの家と領地を補償してくれる後ろ盾を失うのです。

その後真田家が頼ったとのは、なんと自分達の主人を死に追いやった織田家でした。いくら家と土地が大事とはいえ、つい先日まで敵として戦っていた、しかも主人の仇といえる人物の下にサラリとつけちゃうのが当時の武士達の価値観だとも言えますし、もしくは父昌幸の大胆さとも言えるかもしれません。

しかしその織田家も、頭首信長が本能寺の変で明智光秀に暗殺されてしまいます。真田家は再び後ろ盾を失ってしまうのです。

そして次に真田家が頼ったのは、なんと旧主武田家のライバルだった上杉家だったのです。いや、ちょっと見境無さすぎだろうとツッコム人もいることでしょう。でも良いんです! 真田家だから! もう川中島で四回くらいボコスカ殺しあった過去とか関係ないんです! 真田だから!

というのも真田昌幸の本領はここから発揮されるのです……。

昌幸パパの恐るべき外交能力

この頃の真田家の頭首は父昌幸です。この人失くして戦国時代に真田家は存続できなかったでしょうし、このお父さんの背中を見ながら信繁も育ったんだと考えると、後に切れ者となる信繁はしっかりとお父さんのDNAをもらっているんだなぁと感慨深いかぎりです。

というのもこの昌幸パパは上杉に帰順したと思いきや、今度は北条、さらには徳川と、信長の死後はころころと遣える相手を変えているのです。ここまでくると節操がないってレベルではありません。

しかし、逆に考えてみてください。こんなに主人をコロコロ変えているのにも関わらず、上杉も北条も徳川も、一度は真田家を家臣として迎え入れているのです。これは裏を返せば、昌幸がそこまで有能だったことを意味しているかもしれません。

上杉家人質時代から豊臣傘下へ

ただし、上杉→北条→徳川と渡り、そして再び上杉家に渡ったときばかりは人質を出さねばなりませんでした。それが信繁だったのです。

しかし、人質でありながら信繁の扱いはかなりの厚遇だったとされます。人質と言うよりは将来の重要家臣候補として扱われていたのかもしれません。というのも信繁は上杉領内にいる間、自分の領地さえ与えられたと言われているのです。

かなりのビップ待遇を受けていた信繁ですが、上杉家との生活は僅か5ヶ月ばかりという短いものになってしまいました。

なんと昌幸パパが、信繁が上杉家にいる間に豊臣家とコンタクトをとってそのまま勝手に豊臣政権に帰属してしまったのです。そして信繁はあれよあれよといううちに、今度は豊臣家の人質になってしまいました。

これには流石の上杉景勝(当時の上杉家の頭首)も激怒したと言われています。怒った景勝は秀吉に信繁を返してもらうよう直談判しましたが、残念ながらかないませんでした。これは景勝がそれほどまで信繁に目をかけていたことが窺えるエピソードとも考えられます。

さて。豊臣への人質として大阪へと送られた信繁。このときおよそ18歳頃と言われています。このあと彼は大阪で多くの人と出会い、小田原出兵、朝鮮の役、関ヶ原の戦い、そして大阪の陣へと臨みます。どのような残り半生を過ごしたかは、また次回お話したいと思います。

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